目についた記事を、その時々に書き込むつもりです。
母宛の饅頭セールの葉書着き買って供える父のとふたつ
京都市 足立 紀子
母は甘党で、気に入りの和菓子を取り寄せたりしていたのだろう。父と母の霊前に仲良く二つ供えたところがあたたかい。 【 栗木 京子 選 】
京都市 足立 紀子
母は甘党で、気に入りの和菓子を取り寄せたりしていたのだろう。父と母の霊前に仲良く二つ供えたところがあたたかい。 【 栗木 京子 選 】
肉(しし) ― 骨に 骨 ― 水に 水 ―風に 無に ただに明るし 後生の時間
高橋 睦郎( たかはし むつお )
その昔、美女の遺体の変容を絵に描かせ、折々に広げては眺めることが行われた。この世のはかなさをみにしみて知るためである。この一首、肉体が徐々に透明なものへと変じてゆく。死後の時間には光が満ちているかのように。
【 '14.12.19 四季 ・ 長谷川 櫂 選 】
高橋 睦郎( たかはし むつお )
その昔、美女の遺体の変容を絵に描かせ、折々に広げては眺めることが行われた。この世のはかなさをみにしみて知るためである。この一首、肉体が徐々に透明なものへと変じてゆく。死後の時間には光が満ちているかのように。
【 '14.12.19 四季 ・ 長谷川 櫂 選 】
漱石のむづかしき貌冬に入る 霧島市 久野 茂樹
よく知られている夏目漱石の写真はみな重々しく、いわば「むづかしき貌(かお)」である。漱石の「むづかしき貌」は冬以外のどの季節とも重ならない。
【 宇多 喜代子 選 】
よく知られている夏目漱石の写真はみな重々しく、いわば「むづかしき貌(かお)」である。漱石の「むづかしき貌」は冬以外のどの季節とも重ならない。
【 宇多 喜代子 選 】
友らみな皹太郎皸太郎 橿原市 堀江 重臣
偏と旁(つくり)を入れ替えても同じ意味で、どちらも「ひび」「あかぎれ」と読む漢字の面白さ。太郎も次郎も昔遊んだ男の子。皹(あかぎれ)、皸(ひび)、霜焼けの子がたくさんいた昭和の状景だろう。 【 正木 ゆう子 選 】
偏と旁(つくり)を入れ替えても同じ意味で、どちらも「ひび」「あかぎれ」と読む漢字の面白さ。太郎も次郎も昔遊んだ男の子。皹(あかぎれ)、皸(ひび)、霜焼けの子がたくさんいた昭和の状景だろう。 【 正木 ゆう子 選 】
実直な顔見せてみな日記買ふ 町田市 風間 良富
新しい年に祈りを込めつつ日記を買うとき、人は自然にそんな顔になるのだろう。 真面目でも神妙でもいいが、実直という言葉が生きた。 【 正木 ゆう子 選 】
新しい年に祈りを込めつつ日記を買うとき、人は自然にそんな顔になるのだろう。 真面目でも神妙でもいいが、実直という言葉が生きた。 【 正木 ゆう子 選 】
吹きだまり我が家の前は福だまり良きにとらえて動かす箒
海老名市 武田 元子
地形や風向きの関係で家の前に落ち葉がたまりやすい。 それを嫌がらずに、「福だまり」と発想の転換をした。 「吹きだまり」と「福だまり」の一字違いの言葉遊びが楽しい。 【 栗木 京子 選 】
海老名市 武田 元子
地形や風向きの関係で家の前に落ち葉がたまりやすい。 それを嫌がらずに、「福だまり」と発想の転換をした。 「吹きだまり」と「福だまり」の一字違いの言葉遊びが楽しい。 【 栗木 京子 選 】
スーパーでヨーグルト買わな面接のただなか「短所」述べつつ想う
神戸市 北野 中子
真剣な状況で、たわいないことをふと思い浮かべるときがある。「短所」から「ヨーグルト」への連想が謎めいていて、魅力的。 【 栗木 京子 選 】
神戸市 北野 中子
真剣な状況で、たわいないことをふと思い浮かべるときがある。「短所」から「ヨーグルト」への連想が謎めいていて、魅力的。 【 栗木 京子 選 】
あと一歩ふみ出しかねて幾たびか好機のがせしわれの人生
京都市 高橋 雅雄
世間でも多くの人が、同じ思いを抱いているはず。だが案外、その一歩を踏まなかった方が好運だった場合も少なくなかったはず。 【 岡野 弘彦 選 】
京都市 高橋 雅雄
世間でも多くの人が、同じ思いを抱いているはず。だが案外、その一歩を踏まなかった方が好運だった場合も少なくなかったはず。 【 岡野 弘彦 選 】
母さんに伝えたいこと多すぎる手紙はやめてうちに帰ろう
京都市 山田 峰大
この一首が、すでに手紙だ。息子が母親に手紙を書くだけでも珍しい昨今、爽やかな下の句泣かせる。「会う」ということの濃密さと大切さ。 【 俵 万智 選 】
京都市 山田 峰大
この一首が、すでに手紙だ。息子が母親に手紙を書くだけでも珍しい昨今、爽やかな下の句泣かせる。「会う」ということの濃密さと大切さ。 【 俵 万智 選 】
鮭鍋の刎ねられし首笑ひをり 岩手県 佐藤 ただし
鮭(さけ)の刎(は)ねた首が、 鍋の中で煮られて笑っているというのだ。 鍋料理は、縄文時代からほぼ変わっていないという。この鮭の笑う首に縄文人の感情が、生きているのを感じた。 【 小澤 實 選 】
鮭(さけ)の刎(は)ねた首が、 鍋の中で煮られて笑っているというのだ。 鍋料理は、縄文時代からほぼ変わっていないという。この鮭の笑う首に縄文人の感情が、生きているのを感じた。 【 小澤 實 選 】