暑くなりそうですが、からだに気をつけて頑張りましょう。
お葬式で冷や汗 奈良市 松下 靖彦 ( 派遣社員 43歳 )
知り合いのお葬式に行った時のことだ。私の携帯電話が突然、鳴り始めた。電源を切るなり、マナーモードにするなりすれば良かったが、忘れていた。早く止めなければと、慌てれば慌てるほど、携帯電話のありかがわからない。
しかも、着信時に流れる音楽を昔のヒット曲「帰って来たヨッパライ」にしていた。軽快な音楽が葬式会場に鳴り響く。携帯電話を見つけ、やっと止めたものの、周囲からは刺すような冷たい視線。額から汗が流れ落ちた。
携帯電話を持つ時は着信音にも気を配ることが必要と感じた一件だった。
写真家 石川 直樹
世界中を旅して写真を撮っているうえに、風景を写した作品も多いからか、環境問題を絡めた取材を受ける機会も多くなった。しかし、何かを訴えるためにぼくは写真を撮っているわけではないし、エコがどうのと謳(うた)うイメージ優先で商業主義にまみれた都市のキャンペーンには疑念さえ抱いている。
本来エコロジーとは生態学を背景とした思想や活動を表す言葉であって、耳に心地よいコピーとして、街に跋扈(ばっこ)する類のものではないだろう。消費経済のなかでエコという接頭辞が軽々しく使われ、それが絶対的な「善」としてまかりとおる現状を見ていると、いやはやというため息もでる。
自然に近い暮らしを営む人々は、大地が傷つけば、自分たちが立ちゆかなくなることをわかっている。例えば、彼らが薬草や木の実などを森から得るとき、それらを根こそぎ採らないのは、自らが他の生き物と何かをわかちあいながら生きているということを強く認識しているからである。それは、見返りを求めない贈与の関係といってもいい。
野山に生きる人々は、結果的に自然と親和性のある生き方になったのであって、それが目的ではなかった。見返りを求めた「いいこと風」のキャンペーンは、上辺だけを取り繕った営業ツールのように見えてなんだかむなしい。エコを免罪符のように振りかざして邁進(まいしん)する企業は、それを唱えること自体に満足するかもしれないが、森の人は決して声高に叫ばない。エコという二文字を使用せずとも、出会った人や目の前の世界に今より少しだけ優しく接することができれば、日々はわずかに変化していくだろう。ぼくはそう信じてやまないのだ。 < 10.3.19 読売新聞 夕刊 >
西部 邁(にしべ・すすむ) 評論家 1939年、北海道生まれ。
東大大学院経済学研究科修士課程修了。横浜国大助教授、東大助教授を経て同教授となるも、49歳で辞任。1994~2005年、月刊オピニオン誌「発言者」刊行。05年創刊の隔月刊誌「表現者」の顧問を務める。近著は「妻と僕」。
【不屈のひみつ】 「しゃべれるか」壇上で賭け (9月16日)
学生時代は60年安保闘争の先頭に立ち、その後は保守思想を掲げて言論界をリード。1988年に人事問題のこじれで東大教授を辞め、今年は妻・満智子さんのがんを著書で明らかにした。しばしば世を驚かせてきたが、「僕の人生は30歳過ぎまで浮いたり沈んだりの人生だったけれども、その後はたんたんとしたものだよ」と振り返る。
最初の落ち込みは5歳のころ。札幌近郊に育つが、「冬になると木枯らしが吹いて気持ちが荒涼とする。にぎやかになると思って、自分の家に火を付けたんだ」。幸い、祖母が障子の火を消して事なきを得たが、これがケンカと非行に彩られた吃音(きつおん)少年の“デビュー”だった。
小学校ではケンカばかりしていた。俊足で運動会の徒競走はいつも1番。「英雄時代だった」が、4年生の時に足をねんざし、哀れヒーローは表舞台を去った。中学校に入ると非行に走り、万引き少年に。1年後には「不安になって」やめたが、ケンカっ早さは変わらなかった。勉強もケンカ腰だった。高1の1年間で3年分の勉強を終えていた。
高2の夏、人生最大の落ち込みを経験する。妹を乗せた自転車を運転中に荷車と衝突。妹は内臓破裂の重傷で生死をさまよった。以来、「吃音が悪化し、全く口をきかず、何も読まない無気力症になった。それが高校卒業まで続いた」という。
1浪して東大に入り、学生運動を始めるが、理由がまた尋常でなかった。「犯罪者になってみたかったんだ」。左翼の何たるかも知らないままブント(共産主義者同盟)に加わり、1年ほどガリ版刷りに精を出した。
大学2年の秋、転機が訪れる。東京の日比谷野外音楽堂で演説予定者が登壇できなくなり、突然「代わりにお前が話せ」と言われた。「一瞬のうちに心の中で賭け事をやったんだ。ここでしゃべれなければ一生しゃべれないだろうし、しゃべれれば一人前の人間になれると」。そして壇上に立つと、幾らでもしゃべれた。物心ついて以来の吃音が、治ってしまった。
その後も起伏は収まらない。翌年には逮捕・拘置。11月に保釈され、左翼との決別も決心したが、待っていたのは貧困と飢えだった。結婚しても人生の目的を見いだせず、酒とバクチに費やす日々。連合赤軍事件で目の当たりにした左翼の末路に衝撃を受け、ようやく猛勉強。保守思想を身につけ始めて心の安定を見いだした時は、すでに30歳をだいぶ過ぎていた。
その後の人生については、こう語る。「東大を辞めるのなんて何でもなかった。妻のがんも来るものが来たというだけのこと。僕はあと、折れ線グラフが折れるように死ぬだけだよ」 ( 植田 滋 )
参列者で最高齢となるのは101歳の池端志津江さん(さいたま市見沼区)。過去の追悼式でも最高齢となる。夫・正雄さんは1944年8月に臨時召集され、輸送船で南方戦線に向かう途中の同12月、台湾・フィリピン間の海峡で潜水艦の雷撃を受けて戦死した。
2人は当時では珍しい恋愛結婚だった。夫は自分が勤めた染め物工場で妻が働けるよう取り計らい、南方へ旅立った。「子供を頼む」。そう言い残した夫の戦死の知らせが届いたのは終戦の翌年だった。
子供は男ばかり3人。生活は苦しかったが、埼玉県内の染め物工場で55歳まで働き、3人を育て上げた。その間も夫と過ごした家を離れようとはしなかった。息子たちが次々に巣立った後も住み続けた。「母はいつか父が帰ってくる。そう信じて生きてきたのだろう」。三男の正之さん(69)はそう思ってきた。しかし95歳の時、硬膜下出血で倒れる。退院した後は愛着のあった家を離れ、長男宅で暮らしている。
「戦争のことは忘れた」。息子たちにかたくなに言い続けた。何も語ろうとしない。大戦を扱ったテレビ番組も見ない。追悼式の案内が来ても関心を示さなかった。昨夏、新聞で追悼式の記事を読んだ後、「私も出たいわ」とつぶやいた。同じ戦没者の妻たちが高齢を押して参列していることを知り、気持ちが変わった。
それから1年後のこの日、車いすに乗った志津江さんは正雄さんの遺影を胸に抱え、武道館に入った。「お国のためでしたけど、大変な目に遭った。残念です」と思いを語った。追悼式に初めて参列することは、「あの世にいるお父さんも喜んでいると思います。お父さんのおかげで私は長生きできた。みんなが平和に健康に暮らせることを願っています」と話した。