目についた記事を、その時々に書き込むつもりです。
今はよかった
iPhoneに 「今昔散歩」というアプリ(ソフト)がある。 今の私が、むかしの地図のどこにいるのか、カーナビのようにわかるアプリである。
山手線が、江戸時代の海をすべってゆく。改札を抜け、明治時代には海だったマクドナルドでポテトを食べていると、なんだかひどく切なくなる。ああ、今はよかったなあ、と思う。
日本は、みるみる人が減ってゆく。2040年には全住戸の40%が空家になるとの試算もある。家が余り、町が余る。山裾を切り開いて建てた郊外のニュータウンはいずれタウンごと取り壊し、イノシシに返してあげることになる。
百年後のわたしは、百年後の「今昔散歩」を片手に「むかしこのへんは町だったんだなあ」と、雑木林を歩くのだろうか。「今はよかった」と思いながら、わたしは今日も町を歩いて、歌を詠んでいる。 (’12.02.06)
震災を詠むということ
ニコニコ動画で「3月11日の震災後の津波」を見た。撮影者は、河口にほど近い自宅の2階から淡々と実況している。 「見えますかね、あの橋の向こう側」 「えー。津波とか」 「持ってけないんですけど。パソコンとか」 「あれですね。避難しないと」 「嘘(うそ)だろ」 「マジで死んじゃう何秒前ってヤツじゃねーの?」。
幸い彼は生き延びる。しかし 淡々と撮影しながらカメラごと流された人も、存在しただろう。
震災の歌を詠むとき、高台から見下ろす黒い波を、砂まみれのランドセルを、私は忘れなければならない。それは生存者にしか見られない、他人の死だからだ。悲惨な映像を思うほど私は、わたしの死から遠ざかる。
流されたカメラの中の、「マジで死んじゃう5秒前」の光景を想(おも)うこと。震災の歌は、そこから始めなければならない。
撮ってたらそこまで来てあっという間で死ぬかと思ってほんとうに死ぬ
(’12.02.14)
二つの文章が同じ人のものであるとは思えないほど後者は読みづらく、何度も原文を確認しながら書き写しました。 勝手に言わせてもらえば、後者は「駄文」でせう?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ワレワレワ日本日本人ダ
乗り物から降りてきた生き物が、喉をふるわせて言う。
『ワレワレワ宇宙人ダ』
宇宙と言っても広いですよね。と促すと、三人はしばらく相談の上、
日本語の流暢な一人が前に出てきて、こう説明する。
「正確を期すならば、われわれわれは火星火星土星人です。
土星人われは『ワレワレワ火星人ダ』で構わないよ。
おいおい補足するからと言ったのですが、
律儀律儀なかれかれはいやいや悪いよと言い張って、結果。」
ではもし、火星人と土星人、ふたりで降りてきたら?
『ワレワレワ火星土星人ダ』
火星人二人だったら?
『ワレワレワ火星人ダ』
火星火星人ダ、ではなく?
「ぐぬぬぬ、」と黙り込んだ生き物は乗り物に乗り込んで去り、こうして地球は守られたのだ。
□
『ワレワレワ日本日本人ダ』のような文法がないのが、いまの日本語の限界である。それは、短歌の<われ>の限界でもある。 (’12.03.05)
「毎月2回、若手歌人・俳人が執筆します」 とあったので期待していたが、またまた斉藤氏の駄文、ガッカリしています(後日、削除するかも?)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
黙とう、の一分の間に
これの締切は3月12日で、書いているきょうは11日だ。テレビを眺めていたら、去年のあの無力感がよみがえってきて何も書く気がしなくなり寝た。目覚めたらまだ22行、いや、21行もある。テレビの椅子に、両陛下が腰を下ろされる。
黙とう、の1分のあいだに、わたしはなにも思わなかった。被災されて生き延びた方にも、亡くなった方にも、かける言葉はまだ見つからないのだから、心の中の言葉でも、何も思いたくなかった。目をとじると、人びとの黙る音が聞こえた。
目の前の風景をただ写生する、それが短歌なのだとすれば、短歌とは、黙とうである。生きていると、自分にかける言葉が見つからないことがある。そういうときは何も考えずに、目に見えるものを見、耳に聞こえる音を聞き、もうすこし息をつづけてほしい。黙る人びとの息を聞きながら、そんなことを祈っていたのは、いつの間にか眠っていた夢の中でのことだった。(’12.03.19 )
惰眠と惰眠の合間に駄文を書くことは「空しい」とは思いませんか?
ご自分を責めずに、「般若心経」でも唱えてみてはいかがでしょう・・・。
【 短歌あれこれ 】 (「毎月2回、若手歌人・俳人が執筆します)
iPhoneに 「今昔散歩」というアプリ(ソフト)がある。 今の私が、むかしの地図のどこにいるのか、カーナビのようにわかるアプリである。
山手線が、江戸時代の海をすべってゆく。改札を抜け、明治時代には海だったマクドナルドでポテトを食べていると、なんだかひどく切なくなる。ああ、今はよかったなあ、と思う。
日本は、みるみる人が減ってゆく。2040年には全住戸の40%が空家になるとの試算もある。家が余り、町が余る。山裾を切り開いて建てた郊外のニュータウンはいずれタウンごと取り壊し、イノシシに返してあげることになる。
百年後のわたしは、百年後の「今昔散歩」を片手に「むかしこのへんは町だったんだなあ」と、雑木林を歩くのだろうか。「今はよかった」と思いながら、わたしは今日も町を歩いて、歌を詠んでいる。 (’12.02.06)
震災を詠むということ
ニコニコ動画で「3月11日の震災後の津波」を見た。撮影者は、河口にほど近い自宅の2階から淡々と実況している。 「見えますかね、あの橋の向こう側」 「えー。津波とか」 「持ってけないんですけど。パソコンとか」 「あれですね。避難しないと」 「嘘(うそ)だろ」 「マジで死んじゃう何秒前ってヤツじゃねーの?」。
幸い彼は生き延びる。しかし 淡々と撮影しながらカメラごと流された人も、存在しただろう。
震災の歌を詠むとき、高台から見下ろす黒い波を、砂まみれのランドセルを、私は忘れなければならない。それは生存者にしか見られない、他人の死だからだ。悲惨な映像を思うほど私は、わたしの死から遠ざかる。
流されたカメラの中の、「マジで死んじゃう5秒前」の光景を想(おも)うこと。震災の歌は、そこから始めなければならない。
撮ってたらそこまで来てあっという間で死ぬかと思ってほんとうに死ぬ
(’12.02.14)
二つの文章が同じ人のものであるとは思えないほど後者は読みづらく、何度も原文を確認しながら書き写しました。 勝手に言わせてもらえば、後者は「駄文」でせう?
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ワレワレワ日本日本人ダ
乗り物から降りてきた生き物が、喉をふるわせて言う。
『ワレワレワ宇宙人ダ』
宇宙と言っても広いですよね。と促すと、三人はしばらく相談の上、
日本語の流暢な一人が前に出てきて、こう説明する。
「正確を期すならば、われわれわれは火星火星土星人です。
土星人われは『ワレワレワ火星人ダ』で構わないよ。
おいおい補足するからと言ったのですが、
律儀律儀なかれかれはいやいや悪いよと言い張って、結果。」
ではもし、火星人と土星人、ふたりで降りてきたら?
『ワレワレワ火星土星人ダ』
火星人二人だったら?
『ワレワレワ火星人ダ』
火星火星人ダ、ではなく?
「ぐぬぬぬ、」と黙り込んだ生き物は乗り物に乗り込んで去り、こうして地球は守られたのだ。
□
『ワレワレワ日本日本人ダ』のような文法がないのが、いまの日本語の限界である。それは、短歌の<われ>の限界でもある。 (’12.03.05)
「毎月2回、若手歌人・俳人が執筆します」 とあったので期待していたが、またまた斉藤氏の駄文、ガッカリしています(後日、削除するかも?)。
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黙とう、の一分の間に
これの締切は3月12日で、書いているきょうは11日だ。テレビを眺めていたら、去年のあの無力感がよみがえってきて何も書く気がしなくなり寝た。目覚めたらまだ22行、いや、21行もある。テレビの椅子に、両陛下が腰を下ろされる。
黙とう、の1分のあいだに、わたしはなにも思わなかった。被災されて生き延びた方にも、亡くなった方にも、かける言葉はまだ見つからないのだから、心の中の言葉でも、何も思いたくなかった。目をとじると、人びとの黙る音が聞こえた。
目の前の風景をただ写生する、それが短歌なのだとすれば、短歌とは、黙とうである。生きていると、自分にかける言葉が見つからないことがある。そういうときは何も考えずに、目に見えるものを見、耳に聞こえる音を聞き、もうすこし息をつづけてほしい。黙る人びとの息を聞きながら、そんなことを祈っていたのは、いつの間にか眠っていた夢の中でのことだった。(’12.03.19 )
惰眠と惰眠の合間に駄文を書くことは「空しい」とは思いませんか?
ご自分を責めずに、「般若心経」でも唱えてみてはいかがでしょう・・・。
【 短歌あれこれ 】 (「毎月2回、若手歌人・俳人が執筆します)
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