目についた記事を、その時々に書き込むつもりです。
’06年5月、読売新聞の夕刊で、角川春樹が主唱する「魂の一行詩」というコーナーが始まりました。その第一回目の特選の一句が上の句で、
07.06.26
「俳句は自然風詠、川柳は人間風詠」と言ったのは、川柳作家の時実新子だった。確かに80パーセント以上の俳句結社と俳人は「有季定型、自然風詠」が俳句だと思い込んでいる。また、川柳の多くは文学性が稀薄である。魂の一行詩という観点に立つと、作品は自然風詠と人間風詠の両方をこころがけた方が良い。その点から、人間探求派と呼ばれた中村草田男、石田波郷、加藤秋頓の作品は評価されなければならない。 (角川 春樹)
白魚の魂までも見えており 伊庭 なみ江
今月の投句の中で一番の作品。骨まで透き通って見える、白魚の細やかな「いのち」を詠った句はいくらでもあるが、「魂」までが透いて見えると言った句は、これが初めである。白魚の「いのち」と「たましひ」を詠んだ秀吟。
07.07.31
われ死なば癌も死ぬべし鰯雲 並木 赤平
この句も切実だ。私も胃癌で胃の腑の4分の3を切除した。「鰯雲」の季語が明るく。上5中7の「暗」を一転させた見事な一行詩。
07.09.25
八月の音なき空の白き雲 笠原 タカ子
この作者の年齢も定かではないが、戦争を知る世代なら誰でも「八月の音なき空」は、戦後の空を思い浮かべるだろう。特に敗戦の日である。裏に悲惨な戦争を隠した象徴詩。この句には余分なものがない。
原爆忌一個の影として歩む 日下部 遼太
人間の影だけ残して消滅させた原爆。この日こそ「虐殺忌」と言うべきだ。いま作者は一個の影として歩むだけだ、という。作者と読者が共振れを起こす一行詩。
08.06.24
死者に口なし葉桜のさわぎなさい 林 佑子
俳諧には、本来、読者への呼びかけが内蔵しているものだが、現代の俳句にはその機能が失われ、大半が作者のモノローグである。林佑子の作品は、死者に対するダイアローグであり、しかも命令形である。それが従来の俳句と決定的に異なり、小説や戯曲のような物語性を生むことになる。勿論、口語でなければ成立しない。
たんぽぽや末期と軽く告げらるる 並木 赤平
08.08.28
写実とは具象であり、デッサンである。それだけでは、詩歌は写真にも、絵画にも、映画にも、音楽にも、小説にも劣ることになる。魂の一行詩が他の芸術を越える方法論としては、言葉を徹底的に追求し、何らかのファクター(隠喩)を内蔵した象徴詩の世界に行き着くしかないのだ。絵画で言えば、具象から抽象へ進化してゆく。客観写生を説く高浜虚子の、次の代表句も象徴的である。
去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの 虚子
貫く棒は、過去・現在・未来の時間軸を一本の棒に見立てた象徴である。この句の偉大さは、具象を抽象に消化させたことであり、象徴詩としての見事さにあるのだ。
かなかなや終章の句は成り難し 並木 赤平
中7の「終章の句」とは、おのが人生の終わりの句ということ。または、辞世の一句。蜩(ひぐらし)の鳴く夕べに、おのが人生の終わりの感慨を一句に認(したた)めようとしても、なかなか上手く一句にならない、という句意。自己投影の効いた一句。
08.10.30
黒揚羽わが棺にこそ止まり来よ 並木 赤平
癌患者と思われる同時作がいくつもあった。句意は文字通りである。私の処女句集「カエサルの地」に次の一句がある。
黒き蝶ゴッホの耳を殺(そ)ぎに来る 春樹
08.11.25
行秋のどの木が父の木だらうか 鈴木 涼水
誰にでも一本の木がある。多分、父にもあったはずだ。しかし、父の木となると、子供であった頃の父と関連ある木となろう。「行秋」は、過ぎていくものの象徴である。
五体みな貰ひし血なり枯葎(かれむぐら) 並木 赤平
輸血によって生かされている作者の感慨が一句となった。「枯葎」は、実景というより作者自身の現在の象徴。
08.12.16
風花や淋しきことは口にせず 笠原 タカ子
「風花」という美しい季語に対して、「淋しきことは口にせず」は反語であり、実は淋しいという心理的な「暗」。二句一章の、「明」を「暗」に転換させた佳吟。
花あれば寂寥という詩の器 角川 春樹
西行であろうが、実朝であろうが、万葉集に溯(さかのぼ)れば大伴家持であろうが、俳諧の芭蕉であろうが、近代短歌の釈召空に至る。古代から現代まで、詩人は孤独の中で詩を詠みつづけてきた。寂寥感は常に詩を生みだす根源である。「永遠の今」を詠む時間意識も、宇宙の中のたった一人の自分という認識があってのことである。
09.02.07
白魚にかくも愛(かな)しき目(まなこ)あり 角川 春樹
あんこうのまなこ抜けたる寒さかな 藤田 美和子
下五の「寒さかな」を導く措辞として、上五中七の「あんこうのまなこ抜けたる}がある。力強く、そして荒涼とした景の油絵が連想される。
09.03.07
此岸から此岸へ細き除夜の鐘 並木 赤平
09.07.04
うつくしき冬空なりし鉄格子 春樹
・・・・・・なにしろ句作における禁止事項が百以上あるというのだ。俗語は勿論、無季俳句、口語俳句の否定ばかりか、「うつくしい」「淋しい」と言った形容詞も、タブーに触れるのだ。もはやそれは詩ではない。ただの骨董品である。
美しき飢餓のありけり浜昼顔 中戸川奈津美
伝統俳句の否定する「美しき」は、中七の「飢餓のありけり」の措辞に対して、これ以上考えられない表現。「浜昼顔」の季語が抜群に効いている。芭蕉の言う「取り合わせの妙」が功を奏した秀吟。
09.09.04
ヒロシマや影が歩きたがっている 福原 悠貴
今回の投句は、圧倒的に「原爆忌」の句が多かった中での佳吟。カタカナの「ヒロシマ」は、「ヒロシマ忌」のこと。原爆の投下で、影だけが道路に残り、肉体は蒸発してしまったことを詠んだ。中七下五の措辞が切ない。
07.06.26
「俳句は自然風詠、川柳は人間風詠」と言ったのは、川柳作家の時実新子だった。確かに80パーセント以上の俳句結社と俳人は「有季定型、自然風詠」が俳句だと思い込んでいる。また、川柳の多くは文学性が稀薄である。魂の一行詩という観点に立つと、作品は自然風詠と人間風詠の両方をこころがけた方が良い。その点から、人間探求派と呼ばれた中村草田男、石田波郷、加藤秋頓の作品は評価されなければならない。 (角川 春樹)
白魚の魂までも見えており 伊庭 なみ江
今月の投句の中で一番の作品。骨まで透き通って見える、白魚の細やかな「いのち」を詠った句はいくらでもあるが、「魂」までが透いて見えると言った句は、これが初めである。白魚の「いのち」と「たましひ」を詠んだ秀吟。
07.07.31
われ死なば癌も死ぬべし鰯雲 並木 赤平
この句も切実だ。私も胃癌で胃の腑の4分の3を切除した。「鰯雲」の季語が明るく。上5中7の「暗」を一転させた見事な一行詩。
07.09.25
八月の音なき空の白き雲 笠原 タカ子
この作者の年齢も定かではないが、戦争を知る世代なら誰でも「八月の音なき空」は、戦後の空を思い浮かべるだろう。特に敗戦の日である。裏に悲惨な戦争を隠した象徴詩。この句には余分なものがない。
原爆忌一個の影として歩む 日下部 遼太
人間の影だけ残して消滅させた原爆。この日こそ「虐殺忌」と言うべきだ。いま作者は一個の影として歩むだけだ、という。作者と読者が共振れを起こす一行詩。
08.06.24
死者に口なし葉桜のさわぎなさい 林 佑子
俳諧には、本来、読者への呼びかけが内蔵しているものだが、現代の俳句にはその機能が失われ、大半が作者のモノローグである。林佑子の作品は、死者に対するダイアローグであり、しかも命令形である。それが従来の俳句と決定的に異なり、小説や戯曲のような物語性を生むことになる。勿論、口語でなければ成立しない。
たんぽぽや末期と軽く告げらるる 並木 赤平
08.08.28
写実とは具象であり、デッサンである。それだけでは、詩歌は写真にも、絵画にも、映画にも、音楽にも、小説にも劣ることになる。魂の一行詩が他の芸術を越える方法論としては、言葉を徹底的に追求し、何らかのファクター(隠喩)を内蔵した象徴詩の世界に行き着くしかないのだ。絵画で言えば、具象から抽象へ進化してゆく。客観写生を説く高浜虚子の、次の代表句も象徴的である。
去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの 虚子
貫く棒は、過去・現在・未来の時間軸を一本の棒に見立てた象徴である。この句の偉大さは、具象を抽象に消化させたことであり、象徴詩としての見事さにあるのだ。
かなかなや終章の句は成り難し 並木 赤平
中7の「終章の句」とは、おのが人生の終わりの句ということ。または、辞世の一句。蜩(ひぐらし)の鳴く夕べに、おのが人生の終わりの感慨を一句に認(したた)めようとしても、なかなか上手く一句にならない、という句意。自己投影の効いた一句。
08.10.30
黒揚羽わが棺にこそ止まり来よ 並木 赤平
癌患者と思われる同時作がいくつもあった。句意は文字通りである。私の処女句集「カエサルの地」に次の一句がある。
黒き蝶ゴッホの耳を殺(そ)ぎに来る 春樹
08.11.25
行秋のどの木が父の木だらうか 鈴木 涼水
誰にでも一本の木がある。多分、父にもあったはずだ。しかし、父の木となると、子供であった頃の父と関連ある木となろう。「行秋」は、過ぎていくものの象徴である。
五体みな貰ひし血なり枯葎(かれむぐら) 並木 赤平
輸血によって生かされている作者の感慨が一句となった。「枯葎」は、実景というより作者自身の現在の象徴。
08.12.16
風花や淋しきことは口にせず 笠原 タカ子
「風花」という美しい季語に対して、「淋しきことは口にせず」は反語であり、実は淋しいという心理的な「暗」。二句一章の、「明」を「暗」に転換させた佳吟。
花あれば寂寥という詩の器 角川 春樹
西行であろうが、実朝であろうが、万葉集に溯(さかのぼ)れば大伴家持であろうが、俳諧の芭蕉であろうが、近代短歌の釈召空に至る。古代から現代まで、詩人は孤独の中で詩を詠みつづけてきた。寂寥感は常に詩を生みだす根源である。「永遠の今」を詠む時間意識も、宇宙の中のたった一人の自分という認識があってのことである。
09.02.07
白魚にかくも愛(かな)しき目(まなこ)あり 角川 春樹
あんこうのまなこ抜けたる寒さかな 藤田 美和子
下五の「寒さかな」を導く措辞として、上五中七の「あんこうのまなこ抜けたる}がある。力強く、そして荒涼とした景の油絵が連想される。
09.03.07
此岸から此岸へ細き除夜の鐘 並木 赤平
09.07.04
うつくしき冬空なりし鉄格子 春樹
・・・・・・なにしろ句作における禁止事項が百以上あるというのだ。俗語は勿論、無季俳句、口語俳句の否定ばかりか、「うつくしい」「淋しい」と言った形容詞も、タブーに触れるのだ。もはやそれは詩ではない。ただの骨董品である。
美しき飢餓のありけり浜昼顔 中戸川奈津美
伝統俳句の否定する「美しき」は、中七の「飢餓のありけり」の措辞に対して、これ以上考えられない表現。「浜昼顔」の季語が抜群に効いている。芭蕉の言う「取り合わせの妙」が功を奏した秀吟。
09.09.04
ヒロシマや影が歩きたがっている 福原 悠貴
今回の投句は、圧倒的に「原爆忌」の句が多かった中での佳吟。カタカナの「ヒロシマ」は、「ヒロシマ忌」のこと。原爆の投下で、影だけが道路に残り、肉体は蒸発してしまったことを詠んだ。中七下五の措辞が切ない。