目についた記事を、その時々に書き込むつもりです。
文化庁は12日、2009年度の芸術選奨文部科学大臣賞と同新人賞の受賞者を発表した。 文部科学大臣賞には、音楽家の坂本龍一さん(58)、評論家の西部邁さん(70)ら19人が選ばれた。
西部 邁(にしべ・すすむ) 評論家 1939年、北海道生まれ。
東大大学院経済学研究科修士課程修了。横浜国大助教授、東大助教授を経て同教授となるも、49歳で辞任。1994~2005年、月刊オピニオン誌「発言者」刊行。05年創刊の隔月刊誌「表現者」の顧問を務める。近著は「妻と僕」。
【不屈のひみつ】 「しゃべれるか」壇上で賭け (9月16日)
学生時代は60年安保闘争の先頭に立ち、その後は保守思想を掲げて言論界をリード。1988年に人事問題のこじれで東大教授を辞め、今年は妻・満智子さんのがんを著書で明らかにした。しばしば世を驚かせてきたが、「僕の人生は30歳過ぎまで浮いたり沈んだりの人生だったけれども、その後はたんたんとしたものだよ」と振り返る。
最初の落ち込みは5歳のころ。札幌近郊に育つが、「冬になると木枯らしが吹いて気持ちが荒涼とする。にぎやかになると思って、自分の家に火を付けたんだ」。幸い、祖母が障子の火を消して事なきを得たが、これがケンカと非行に彩られた吃音(きつおん)少年の“デビュー”だった。
小学校ではケンカばかりしていた。俊足で運動会の徒競走はいつも1番。「英雄時代だった」が、4年生の時に足をねんざし、哀れヒーローは表舞台を去った。中学校に入ると非行に走り、万引き少年に。1年後には「不安になって」やめたが、ケンカっ早さは変わらなかった。勉強もケンカ腰だった。高1の1年間で3年分の勉強を終えていた。
高2の夏、人生最大の落ち込みを経験する。妹を乗せた自転車を運転中に荷車と衝突。妹は内臓破裂の重傷で生死をさまよった。以来、「吃音が悪化し、全く口をきかず、何も読まない無気力症になった。それが高校卒業まで続いた」という。
1浪して東大に入り、学生運動を始めるが、理由がまた尋常でなかった。「犯罪者になってみたかったんだ」。左翼の何たるかも知らないままブント(共産主義者同盟)に加わり、1年ほどガリ版刷りに精を出した。
大学2年の秋、転機が訪れる。東京の日比谷野外音楽堂で演説予定者が登壇できなくなり、突然「代わりにお前が話せ」と言われた。「一瞬のうちに心の中で賭け事をやったんだ。ここでしゃべれなければ一生しゃべれないだろうし、しゃべれれば一人前の人間になれると」。そして壇上に立つと、幾らでもしゃべれた。物心ついて以来の吃音が、治ってしまった。
その後も起伏は収まらない。翌年には逮捕・拘置。11月に保釈され、左翼との決別も決心したが、待っていたのは貧困と飢えだった。結婚しても人生の目的を見いだせず、酒とバクチに費やす日々。連合赤軍事件で目の当たりにした左翼の末路に衝撃を受け、ようやく猛勉強。保守思想を身につけ始めて心の安定を見いだした時は、すでに30歳をだいぶ過ぎていた。
その後の人生については、こう語る。「東大を辞めるのなんて何でもなかった。妻のがんも来るものが来たというだけのこと。僕はあと、折れ線グラフが折れるように死ぬだけだよ」 ( 植田 滋 )
西部 邁(にしべ・すすむ) 評論家 1939年、北海道生まれ。
東大大学院経済学研究科修士課程修了。横浜国大助教授、東大助教授を経て同教授となるも、49歳で辞任。1994~2005年、月刊オピニオン誌「発言者」刊行。05年創刊の隔月刊誌「表現者」の顧問を務める。近著は「妻と僕」。
【不屈のひみつ】 「しゃべれるか」壇上で賭け (9月16日)
学生時代は60年安保闘争の先頭に立ち、その後は保守思想を掲げて言論界をリード。1988年に人事問題のこじれで東大教授を辞め、今年は妻・満智子さんのがんを著書で明らかにした。しばしば世を驚かせてきたが、「僕の人生は30歳過ぎまで浮いたり沈んだりの人生だったけれども、その後はたんたんとしたものだよ」と振り返る。
最初の落ち込みは5歳のころ。札幌近郊に育つが、「冬になると木枯らしが吹いて気持ちが荒涼とする。にぎやかになると思って、自分の家に火を付けたんだ」。幸い、祖母が障子の火を消して事なきを得たが、これがケンカと非行に彩られた吃音(きつおん)少年の“デビュー”だった。
小学校ではケンカばかりしていた。俊足で運動会の徒競走はいつも1番。「英雄時代だった」が、4年生の時に足をねんざし、哀れヒーローは表舞台を去った。中学校に入ると非行に走り、万引き少年に。1年後には「不安になって」やめたが、ケンカっ早さは変わらなかった。勉強もケンカ腰だった。高1の1年間で3年分の勉強を終えていた。
高2の夏、人生最大の落ち込みを経験する。妹を乗せた自転車を運転中に荷車と衝突。妹は内臓破裂の重傷で生死をさまよった。以来、「吃音が悪化し、全く口をきかず、何も読まない無気力症になった。それが高校卒業まで続いた」という。
1浪して東大に入り、学生運動を始めるが、理由がまた尋常でなかった。「犯罪者になってみたかったんだ」。左翼の何たるかも知らないままブント(共産主義者同盟)に加わり、1年ほどガリ版刷りに精を出した。
大学2年の秋、転機が訪れる。東京の日比谷野外音楽堂で演説予定者が登壇できなくなり、突然「代わりにお前が話せ」と言われた。「一瞬のうちに心の中で賭け事をやったんだ。ここでしゃべれなければ一生しゃべれないだろうし、しゃべれれば一人前の人間になれると」。そして壇上に立つと、幾らでもしゃべれた。物心ついて以来の吃音が、治ってしまった。
その後も起伏は収まらない。翌年には逮捕・拘置。11月に保釈され、左翼との決別も決心したが、待っていたのは貧困と飢えだった。結婚しても人生の目的を見いだせず、酒とバクチに費やす日々。連合赤軍事件で目の当たりにした左翼の末路に衝撃を受け、ようやく猛勉強。保守思想を身につけ始めて心の安定を見いだした時は、すでに30歳をだいぶ過ぎていた。
その後の人生については、こう語る。「東大を辞めるのなんて何でもなかった。妻のがんも来るものが来たというだけのこと。僕はあと、折れ線グラフが折れるように死ぬだけだよ」 ( 植田 滋 )
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